序品(じょほん)第一

(さあお釈迦さまがお出ましになった)

 法華経の第一番目の章が序品で、場面はお釈迦さまがインドのマカダ国、王舎城の近くの小高い山である霊鷲山(りょうじゅせん)において、多くの人々が集まる前で法をお説きになる尊い様子が示されております。

 この序品では、まだお釈迦さまは一言もお言葉を出されておりませんが、集って来たあらゆる人々や、人々ばかりでなく非常に多くの生きとし生けるもの、佛の世界、菩薩の世界の尊い方々より、下は畜生や餓鬼や地獄で苦しむものに至るまで、その代表者があますことなく、お釈迦さまがおりますこの霊鷲山に集まって来たので、天と地が不思議な感動に揺れ、すべてのものの根源が動き起り覚めた姿を見せました。

 天上より白い花びらや赤い花びらがヒラヒラ舞い降り、お釈迦さまや集まった沢山の方々の上にそそぎました。するとお釈迦さまの眉間から、智慧の光がサーッと強く輝きわたって、東方に向って光の届かない所もないほど、明るい照らし方をなされました。この光は一時にとどまらず、未来永遠にわたって全宇宙あますところなく光り輝く事になっていますから、勿論、現在の私たちも、お釈迦さまの眉間から出された光を受けているわけです。

 さて、このような壮大な有様が霊鷲山において起った時、お集りの菩薩さまの中で弥勒(みろく)という方と文殊(もんじゅ)という方がお話をなさいました。

 弥勒は、実行力のある尊い菩薩さまで、やがては私たちを救って下さる佛さまとなられる方です。頬杖をついて深く静かに瞑想にふけっているお姿で現わされていますが、この弥勒菩薩が、智慧のすぐれた何でも知っていらっしゃる文殊菩薩にお尋ねになっているのです。

 文殊さまは、お釈迦さまのまわりの不思議な有様について、

 「この様な現象は、遠い昔にも行われた。今ここにお釈迦さまが我々の前に正しく妙法蓮華経と名付ける世にも尊いお教えを説かれることであろう。どうか心してこの有難いお説法をお聴きしようではないか。一心に合掌してお待ちしようではないか」

 と、弥勒をはじめ居合せた多くの人々に最も大きな期待を寄せられました。文殊さまは妙法蓮華経が、ずっと昔の時代にも日月燈明如来(にちがつとうみょうにょらい)という佛さまとなって説かれたことがあると、前置きされて、その時のお話しを致しました。

 その時、お弟子として法華経をたもち、多くの人々を教え導いた菩薩の中に、妙光菩薩(みょうこうぼさつ)という方がおられました。また、その方の下に求名(ぐみょう)という人がおりました。その求名という人は、世の中の利益ばかりを追い貪り佛道の修行をしても忘れ、少しも頭に入らない困った人でありました。それでも一所懸命に善いことをしようと努力に努力を重ねて参りましたので、その結果、佛さまにお会いする事ができたと申します。その忘れっぽい、あくせくと名誉や利益のみを追求していた求名のような人ですら、努力次第では立派な人になられると説いて、実は、その求名こそ弥勒としてこの世に出たあなたであり、かく言う私こそは、実はあなたのことをよく知っている妙光菩薩の生まれ変わりなのだ、と結んだのです。

 さすがの弥勒菩薩もたいへん驚き、空いた口が塞がらない程あっけにとられました。

 しかし弥勒菩薩は求名のように、やがては多くの人々を教えるべく努力する事に熱心な方でありますので、心よくその忘れっぽい求名であった前の世の自分を見とられたのでありましょう。

 序品では美しい荘厳な表現がなされた後、この様なエピソードもあることを改めてお気付き願いたいと思います。

大事な事は、妙法蓮華経はお釈迦さまの説かれた永遠の真理であって、いつの世でも、どの様な所ででも、ずっと生き続いて繰り返され、説き続けられていることを深くお心に入れておきたいものです。